10月—ユニークで高価な

先日、ボストに「ライフライン」という非常に興味深い内容の冊子が投函されました。堕胎を考えている女性、或はもうすでに経験された女性を支援する団体からのものでした。今回、彼らの働きを知り大変嬉しく思いました。

以前、Tommy Dahlman牧師と共にスウェーデンの南部にある5つのペンテコスト系の教会でご奉仕させて頂きました。私の伴奏者のJoakim Holgersson氏も同行したのですが、集会中Tommyが私に人権・命の尊厳と意味に関してインタビューをするというプログラムが毎晩持たれました。インタビューの内容は、私たちを取り巻く世界又環境において、私たちが考えるべき大切な問題でもありました。

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例えば、もし私が日本に生まれていたとしたら、たぶん一般社会とは切り離された環境の中にいたと思います。上記に述べたような事が叶わないというのは、可哀想なことです。日本は上下関係で成り立っている社会なので、それによって何ができるのか、又自分がどのような者であるのかが自ずと定まってしまいます。神道や仏教の思想が根付いていて、人々の命も因果応報という思想の影響を強く受けています。つまり、前世で何か悪いことをした結果、私がこのような重度のハンディキャップを負ったと捉えられるのです。

もしタイで生まれていたとしたら、私は病院、あるいはバスの中や通りなどに捨てられていたかもしれません。ヒンズー教では、どんな小さなハンディキャップであろうとも、そのような子供を生んだ母親は悪いカルマ(運命)があると信じられています。そのような子供を育てることは、下級階層に家族全員をおとしめることになるのです。兄弟姉妹の結婚にも悪い影響を与えかねません。悪いカルマの背景がある人と結婚するのは、かなり難しいことです。私はLena Maria & Friends Foudationという基金を通して、バンコクにある孤児院で約500名の子供達をサポートしています。そこでは、幸運にも保護されたハンディー持った子供達が養育されているのです。

数年前、スウェーデンで最も経験豊かなジャーナリストのGöran Skytteと共にタンザニアを訪問しました。そこで、山の中にある特別養護教師を育成しているSEKUCo大学を訪問し撮影が行われました。校長のAnneth Munga氏との対談も実現しました。彼女は、もし私がタンザニアに生まれたとしたら、家畜と一緒に生活をし、そこにつながれた人生を送っていただろうと告げられました。私の存在が、家族にとって大きな恥だからです。

今まで語ってきたこの話は、100年前の話ではありません。今の話なのです!私は改めて、キリスト教的思想・文化背景を持つスウェーデンという国で生まれたことに感謝しています。すべての人が平等の価値がある所以に、すべての人が社会において義務と権利を持っているという、キリスト教的な概念に基づいた法律があり、機能している国なのです。もちろん、改善すべき問題はありますが素晴らしい母国であることを誇りに思っています。

私は、出生前診断がなされる以前に生まれた者です。もし、胎児の時に私には両腕が無く、足は片方しか無いということが診断されていたとしたら、医者は母に堕胎をするように奨励していたと思います。そのようなハンディーを持った人が素晴らしい価値を見出して人生を送るということは困難である、と誰しもが感じることでしょう。違うハンディキャップに対して私たちはどのように見ているでしょう?例えば、胎児がダウン症だと診断されたら、その小さな命を断った方がより良い選択だと多くの人たちは判断するでしょう。しかし、誰が人の命の価値を判断する決定権を持つことができるのでしょうか?

命の始まりは、精子が卵子にたどり着き受精した時からであると、個人的には考えています。その観点から見ると、私たち全員は勝利者なのです。外見がどうであろうとも、社会に対して何ができてもできなくても。自然界では、生きる力の無い命は育っていきません。流産された女性は、深い悲しみを体験するのです。

ポストに投函された9月号「いのちと権利」を読み、堕胎を考えている男女を助け、相談できる存在となっているライフラインの働きを知り嬉しく感じました。もうすでに堕胎をしてしまった女性も、カウンセリングが必要なのです。

堕胎の問題は大きな問題ですし、難しい問題でもあります。その問題を語る時には、ひとりひとりに尊敬の念を持たないといけません。それぞれに事情があり、答えは簡単には出せないからです。しかし、同時に私はこの世に生まれて来ることができなかった子供の声にもなりたいと感じています。さらに、子供を育てられない、育てたくない男女の子供たちを育てていけるような社会のしくみを作っていく事も、もっと話し合うべきでしょう。子供が欲しいと願っても与えられない夫婦も沢山います。社会が子供を生むことを奨励し、堕胎は最後の手段となるようにと願っています。

生まれてくる命はすべてユニークであり、他に代るものは無いと私は信じています。ひとりひとりは、それぞれ何かの形で社会に貢献できます。すべての人がそれぞれの分を社会で担っていくことができれば、社会はもっと強く、豊かに、そしてカラフルになるでしょう。

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